17.そら見たことか

私が何か失敗をしたときは

父は、必ず

「そら見たことか!!」

そんなの

「当たり前じゃないか」

と、言いました。

そして

その後に、

その当たり前の理由を、さらっと言います。

私は この3つのセットを言われるのが、 嫌でした。

 

さらに、

父は、こうも続けました

「考えても分からなかった事で、

結果的に何らかの失敗をしたとしても、

それはそれで勉強にもなる。

しかし、行動を起こす前に考えて、

【失敗する】または、【続けはしない】

と 判断できる事柄ならば、

それは始めからするべきではない。」 と。

 

結局の所

私も、私の子どもが中学を卒業する頃までは

言い続けました。

「そ~ら 見たことかぁ」と、イヤミ分を増量して。

 

16. Hara ga Tatsu

対象が 事件 あるいは 事件に およばないこと 限定で、

今回は 腹が立つに関して 口調優しく 書こうと思っています。

まさかと思ってましたが、

親で有りながら 我が子に 「腹が立つ」 人って いるんですよね。

我が子に「腹が立つ」のは、 問題外の外

つまり 話にならないってことですね。

「修行が足りん!!」ってことです。

 

前置きは さておき

結局、

腹が立つ人は、自分の主張を通したいのですね。

自分の主張を認めさせたい 賛同を得たいのですね。

 

人は、他者に対する期待と依存が大きければ大きいほど、腹が立ちやすくなりますよね。

また、自分や、子どもや、恋人といった、自分の大切な人が傷つけられる恐れのある時も。

更に、自分が不利益を受ける可能性がある時も。

 

どうして腹が立つのか?

きっと「自分ならこうする」と思っていることを相手がしないからですよね。

そしてその反発として、相手の行動に怒りを感じるわけです。

 

次に、腹立たしく思える人は、何故そういう行動や態度を取るのか?を考えてみます。

 

あなたに腹を立たせた人は、いったい何がしたくて、そういう行動や態度をとると思いますか?

その人の“肯定的な目的”を考えてみて下さい。

「肯定的な目的? その人のその行動に、肯定的な理由なんてあるの?」と思った方もいるかもしれません。

もしかしたら、あなたのイメージの中では、そのような行動を取る人は、

悪意に満ちている 絶対に許せない悪人や

何を考えているのか分からない 変人 なのかもしれませんね。

でも、その考え方は 如何なものか?

誰だって喜びを得る方法を選択して、行動をとるのに違いはないのですから・・・・。

 

誰かを非難する人は、

その行動を通じて、「私のことをわかってほしい」というのか目的(そうなれば喜びが得られるから)

聞く耳を持たない人は、

「私のことを変えようとしないで。このままの私を認めてほしい」というのが目的。

 

その人も、理解を求めているのです。あなたと同様に

 

その人も、幸せな喜びを味わいたいのです。あなたと同様に

 

その人も、苦痛を避けようとしているのです。あなたと同様に。

 

その人の行動が良否はさて置き、その人の目的が、

あなたと同じく、幸せになることだということを、理解してください。

その人も、あなたと同じく 今 その人のやり方で、一生懸命に頑張っているのです。

他人の心を 傷つけている なんてことには 全然気づいてない場合が大半では?

ただ 世間知らず で 少し自己中 なのかも?

 

その人の行動に腹が立ったときは、

心の中で、「この人も、自分と同じように〇〇を思うゆえでの行動なんだろう」って、考えてみてあげて下さい。

 

 

他人の態度にイライラさせられたとき

無理をして我慢しようとすれば、

「自分は悪くないのに、なぜ私が我慢しなければいけないのか」と思うと、

よけいに腹が立ってしまいます。

そして、「自己嫌悪に陥りたくないから、今度は相手をどんどん悪者に仕立て上げてしまう。

俗に言う悪者探しをしてしまう。

その内にそんなふうに他人を憎んでいる自分に嫌気がさす」という

悪循環にはまり込んでしまいます。

「自分が悪いのか、相手が悪いのか」という考え方では、問題は解決しません。

そんなのどうでも良いのです。

 

あなたの目的は、相手を「はぁはぁ~」と、ひれ伏せさせることですか?

それが 目的なのですか?

自分が悪くても、

相手が悪くても、

いくら 自分を正当化しても、

結局、後味の悪さが残るだけですよね きっと。

 

「どちらが悪いか」という追求は やめましょう。

もちろん、他人への不満をすべて抑え込めばよいというのではなく、

八方美人になれば良いというのでもありません。

 

腹が立ったときに、しなければいけない行動の本来の目的は、

互いの考えを理解し、より良き考え方や行動を取れるようにすることです。

言いたいことが言い合える関係を築くことが大切なのです。

ただ、苛立ちをぶつけるのと、

互いの関係をよくするための建設的意見の話し合いとでは、大きく違います。

その心がけが大切なのです。

 

 

長くなったけど 最後に

腹が立つということに関して、高木善之さんは下述のようなことをおっしゃっています。参考にしてみて下さい。

「思い通りにならないから腹が立つ」

では、思い通りにならないと何にでも腹が立つのだろうか。

例えば 天気は思い通りになるだろうか。

天気は思い通りにならない。

天気は思い通りにならないものだとわかっているから、腹は立たないのだ。

つまり「思い通りにならないから腹が立つ」のではなく

「思い通りになると思っているものが、思い通りにならないときに腹が立つ」のだということがわかる。

ところで、あなたは誰かの思い通り.になる人間だろうか

「とんでもない。自分は誰の思い通りにもならない」と思っている。

たしかにあなたは誰の思い通りにもならないだろう。

そもそも誰だって、誰かの思い通りにはならないものだ。

ではなぜ、その人に腹を立てるのだろうか

あなたが誰の思い通りにもならないのと同じように、

その人だってあなたの思い通りにはならない。

夫婦だって、親子だって、家族だって、部下だって、

自分だって自分の思い通りになりはしない。

思い通りにならないのは当たり前なのだ。

腹を立てていたということは きっと勘違い

あなたが「思い通りになる」と勘違いをしていたことが原因だったのだ。

このことが本当にわかれば、あなたは腹を立てなくなるだろう。

簡単に腹を立てるのは、やめたほうがいい。

勘違いで腹を立てられるのは迷惑なことだ。

つまらんことにしょっちゅう腹を立てるのは、つまらんことだと思う。

 

15.無駄遣い

無駄遣いとは、お金などを、

必要のないことや役に立たないことに使うことです。

 

私の中では

子どもが望むことであっても、

親がそれを 本当はあまり認めていないことに

お金を使うことを、

「無駄遣い」だと思っています。

 

例えば、ゲーム

子どもは 何時間でもゲームをしたい。

そして親は、その使用に対し、制限時間を設ける。

このような場合は、

私は、ゲームを買ったことが、

親の子どもに対する「無駄遣い」だと思います。

 

しかし

同じゲームを買うにしても、

子どもが、ゲーム製作などに興味を持ち、

将来 プロのゲーム制作者を夢見ている。

親も、それに 賛成して

そして 研究熱心な子どもを

応援するような場合は、

それは、「無駄遣い」にならないと思います。

 

よくあるんです。

「うちの子は ゲームばっかりしていて、『止めなさい』って言っても、全然きかなくて・・・・・」

「止めなさい」って、親が言わなければいけないような物を、

なぜ 買うのか?

買い与えた張本人は、あなたでは?

と、私は思うのです。

 

子どもが 何時間でも 没頭できるもの。

そして その没頭している子ども対し、

「感心な子どもだな」って

親として 喜びを覚えられるもの。

そんな物を 買ってあげて欲しいです。

 

通常は 限られた お金のはず。

有効的なその使い道を 考えながら

子育てをして欲しいと思います。

 

折角 買ってあげた物なのに、

何故かそれを、

「あまり使わないようにしなさい」

と、言わざるをえないような

そんな

「無駄遣い」 を、してませんか?

 

 

 

 

 

 

14.前回「親の洗濯?」のおまけ

人には 選択ミスの中で、自分が気づいているミスと気づいていないミスがあるはずです。

自分で「気づいてしまっているミス」を「後悔」と言うのだと思います。

この「気づいてしまっている」と いうところがミソである。

 

後悔するのも自分、後悔しないのも自分。

他人が勝手に、自分を後悔させる訳ではありません。

自分が 認めるから 「後悔」なのです。

危険予知や例外対応の準備の有無で、大きく左右されると思います。

 

ただ、

「神様は その人が解決できないことは 与えない」と聴いたことがあります。

そこは、いくら宗教嫌いでも、信じきってみたいところです。

 

 

 

13. 親の洗濯?

人生は 岐路に立った時の 選択の違いで

進む道が 徐々に変わり、 

そして 他人とは 全く違った結果となる。

人は、方向が違えば、到達点も違う のです。

 

人生を振り返ると

木が成長するがごとくで、

幹という経験があり、たくさんの枝という選択枝がある。

その枝は、

通常 子どもの頃は、親によって剪定される。

盆栽(凡才)にするのも

見栄えの良い木にするのも

生き生きと育つ木にするのも

その剪定次第だと思う。

剪定師、つまり 親がもっている

技量と知識力と能力で

違いが生じ、

その結果

子どもの人生も変わってしまう。

 

よく 「最後は子どもに決めさせたいと思います」 とか

「最後は子どもに決めさせました」と いう

親がいるが

この場合

その時点のその子に、

その事柄を決めることができる能力の

有無判断の、ミスをしてはいけないと思う。

子どもがその判断も下せない能力なのに

親が 子どもに決定権を持たせることは

親の無責任に繋がると思う。

後になって「あなたが決めたんでしょ?」なんて

責任逃れをしてはいけない

親である以上。

 

進路に関するときなど、

子どもにとっては 未知の世界の判断となるわけです。

見知らぬ世界の判断は 大人でも難しいです。

だから、親でさえ 迷う事項なら、

少なくても、子どもが中学卒業する頃までは、

色々なこと

親が判断すべきだと思います。

勿論 子どもの気持ちを察し 考慮しながら。

 

また、

「君が決めなさい」と、言っておきながら

親という権力で

最終的に子どもの意見を覆すことだけは、

しないで済むようにしておくことも大切です。

 

今までに

たくさん 親の選択ミスを 見てきたような気がします。

私事も含めて。

確実に 親の選択ミスのせいで

その子の進む方向が違っていきます。

(断っておきますが ただ、それは あくまでも私の思う選択ミスであって、当の本人にとってはミスでもないかも知れません。)

 

 

一度 自分の考え方の洗濯をすることを お勧めします。

 

 

12. 違うタイプの「当たり前」

今回は 私の「当たり前」とは

違う「当たり前」を持っている人の

ある一つの共通点について書きたいと思います。

 

最初にお断りしておきますが、

これは 決して 私の「当たり前」が正しくて、他は違っているというものではありません。

単純に 私とは違うタイプの「当たり前」をお持ちの、

親の共通点です。

 

 

卓球を一生懸命している子どもが

卓球をする上に必要である用具を

何らかの理由で、購入 または 変更

しなければいけない状態になったときなどに

親が

  • 「自分のお小遣い(貯めて)で 買いなさい」
  • 「それじゃ、誕生日に買ってあげる」
  • 「サンタさんに お願いすれば」

などと 言うところです。

そして

そういう親の子には

何故か

結構 頻繁に

サンタさんが

その子の目標から焦点のずれた

くだらない物を運んでいるという ところ(共通点)もあります。

 

確かに 一言では言えない色々な 事情もあるかも知れませんが、

結果だけを言えば

そのような 「当たり前」の下に、県チャンピオン以上の成績をあげた子どもは、当クラブにおいては 誰も居ません。

 

子どもが望むことで、それが過ちでない事柄なら

全面的に、親は協力してあげてほしいですね。

全面的協力が、感謝の気持ちを植え付けます。

感謝の気持ちが、無駄のない行動にも繋がります。

 

例えば

数学学者を夢見る子どもの

「すごく欲しい 数学の問題集があるんだけど」に対して、

「自分のお小遣いで買いなさい」は、可能な限り無しにしたいですよね。

「安い参考書なら買ってあげる」も、可能な限り無しにしたいですよね。

その代わり

何かを我慢させる必要は、 当然 有りだと思います。

 

どこに 持っている全ての力(時間・お金も含め)を 集中させるのか

どこを 軸として その軸をどうしたブレないでいられるか

この点を 深く 考えたいと 思うのです。

 

次回は、 親の洗濯? にするつもりです。

11. 当たり前2

子どもの頃は 住む世界が狭いから 自分の当たり前が全ての当たり前のように思っているが、大人になると 色々な当たり前があるという話を 前回に書きました。

さて 今回は

何かを求めている子どもを持つ親において

当たり前の共通点があると思う お話です。

その真剣度というか追求度で、共通点も分かれます。

かつて、全中(全国中学校)制覇 ・ インターハイ(高校総体)制覇を目指していた子ども達を持つ親の「当たり前」には、驚くほど共通点があったことを覚えています。

(結果的に 全中準優勝、インターハイ2連覇と準優勝1回でしたが)

中学生時代は、富山県・奈良県・静岡県・兵庫県・石川県・宮城県・三重県出身の選手を持つ親たちでした。

高校になり、愛知県・福岡県・京都府出身の選手が加わりました。

子どもが小学生の時は、地域も違う訳ですから勿論チームも違い、指導者も違うわけです。

環境が全く違っていたのに、親の考える「当たり前」はそっくりでした。

ビデオの撮り方やそのバッテリーの本数などなど、小さなことまでその「当たり前」がそっくりでした。

その「当たり前」が似ていたからこそ、親同士も

ごく自然に

ごく当然のように

まるで学生時代を共に過ごした仲間

のように感じていたのだと思います。

その親の仲間意識・友達感覚は、子どもが大学時代そして社会人になってからも続いています。

子ども達も 選手人生を謳歌しています。

「当たり前」が違うと、どこか 気を遣うことにより うわべの付き合いになってしますケースもありますよね。

子どもが同じクラブに所属している場合は、できるだけ保護者会(当たり前の勉強会)には参加して、意識向上をはかるべきだと思います。

 

次回は、 「違うタイプの当たり前」 にするつもりです。

 

 

10. 当たり前

子どもの頃は、

主に親が作った環境下で生活している。

だから 自分の思う「当たり前」の世界しか知らないで過ごす。

学生時代は、

気の合う仲間とよく似た環境下で生活している。

つまり 「当たり前」が似ている人たちと過ごす。

社会人になり、

結婚して、

親となった頃から

人には「当たり前」に違いがあるのを感じ出す。

 

まあ 要約すれば上記のような気がします。

いつの日からか

自分の「当たり前」が、他人のそれとはかなり違っていると、感じ出しました。

あれ? あの人おかしくない? いや 自分がおかしいのかな?

私にとっての「当たり前」は、誰にとっても「当たり前」だと思っていたのに・・・・・。

 

「その人の当たり前」=「発想の基盤」=「その人の常識」

人は誰だって、自分なりに「当たり前」にやるべきことをやっています。

でも Aさん と Bさん では「当たり前」の種類やレベルが違うことはよくあります。

こんなふうに毎日やっていることの小さな差が、3年後、5年後、10年後に、圧倒的な違いになっていくのです。

その他 違いの生じる理由としては、「例外対応力」の有無や「危険予知」の習慣及び訓練にあると思います。

さて、

当たり前とは

  1. だれが考えてもそうであるべきだと思うこと。当然(当前)なこと。
  2. 普通と変わっていないこと。
  3. 世間なみなこと

つまり、当たり前が違うと言うことは、「常識」が違うことでもあり、「世間並み」と思っているレベルが、違うことです。

成長とは、言い換えるなら、自分にとっての当たり前が増えることだと思います。

たくさん「当たり前」を持っている人が、成長度でも高いとも言えるのではないかと思っています。

勉強が足らないから、成績が悪い。

練習の質が悪いから、試合に勝てない。

食べ過ぎるから、太る。

小学生の頃に遊ばせすぎたから、中学生になっって困る

などなど

「当たり前」ですよね。

一度、子どもと「当たり前」と思えることについて、話し合うことをお勧めします。

子どもが成長するためにも

 

次回に続く

 

9.結果にコミットする

RIZAP(ライザップ)という会社が、「結果にコミットする」ということで業績を伸ばしているようです。

結果にコミットするのだから、業績が伸びるのは、当たり前と言えば当たり前だと思います。

「コミットする」とは、「約束する」とか「引き受ける」という意味です。

「できるだけのことをする覚悟をする」といってもいいでしょう。

親である以上

「子育てにコミット」し、

指導者である以上、

「学びにコミット」し、「結果にコミット」

しなければならないと思います。

つまり、子育てもまともにできない親を、またまた結果を出せない指導者を親や指導者と呼ぶべきではないのでしょう。

 

時折、「あなたは、何回言えばわかるの」と、親が子どもを叱っているのを見かけます。

残念なことに、

親が子どもの「理解」にコミットしていない典型的な状態です。

親の教えが子どもの理解にコミットしていないのですから、本来はこれまでの説明の仕方のどこに問題があったのかを分析して、子どもの理解が進むように親が説明の仕方を変えるべきなのです。

「何回言えば分かるの」は、子どもが全て悪いのではなく、「何回も言っても分からせてあげられない教え方に問題がある」とも、考えてみるべきだと思います。

「何かを教えても教わった方がそれを学んだとは限らない」のです。

つまり、【教えた】=【学んだ】ではないのです。

 

学校でも習い事でも、多くの場合は、【教え手】は「教える」ことに責任は持っても「学ぶ」ことまでは保証していないのです。

多くの塾は、「週何回何時間教えます」という約束を果たせば、「教えた」ことになり、その結果、生徒が理解し自分の知識となったかどうか、つまり生徒が「学んだ」か、どうかは別問題なのです。

だから塾に通っているものの成績が一向に上がらない子どもがいたりするわけです。

そしてそのような子どもの多くの親は、口をそろえて、「うちの子の頭が悪いから、全然成績があがらないんですよね」と、言ったりもします。

成績が悪いから習いに行くのに・・・?

私はとても不思議に思います。

 

教え手が「教えのプロ」でお金(指導料が高いか安いかは別問題)を取っている以上、成績が上がらないのは教え手の教え方がその習い手に合っていない。

つまり、教え手の責任と言っても過言では無いと思います。

更には、合う合わないではなくて、教え手の技量が習い手に合わせられない程度なのです。

勿論、成績が上がらない全ての要因が教え手に有るというわけでもないのですが、とにかく指導に対して料金が発生している以上、「うちの子の頭が悪いから・・・」などといった遠慮など要らないと思います。

「子育てにコミット」するなら、

お父さん、お母さん、

真剣に選択しないと、大切な時期を逃してしまいますよ。

教え手と習い手の双方互いの気持ちが、趣味と本気とでは、違いが出てきて当然です。

教え方が上手いと下手では、上達に大きな差が開いてきます。

 

また、

教え手が、教えることがうまくいかなくなった時、往々にしてまず責められるのは学び手です。「やる気が感じなられない」「自覚がない」「才能が無い」「何を考えているのか分からない」などなどです。そのうちに、保護者が悪い、環境が悪い、地域が悪い、社会が悪いということになっていく場合も多いです。

時には、責められる方も黙ってはいません。「先生にやる気が無い」「無責任」「傲慢」「えこひいき」などなどです。そのうちにやっぱり今の社会が悪いということに落ち着きます。

私は

指導者たる者、

①何か問題があるときに、その原因を個人の能力や性格、やる気のせいにして、問題解決へ行動を取らなくなってしまってはいけない。

②常に自分の教え方を見直し、さらに改善しようとしなければいけない。

以上のことを、信条としています。

 

最後に

一部のボランティア風スポーツ指導において

「タダより高いものはない」という場合もありますし、

「子ども達やシニア層に、ボランティアで教えてやっている」という人がいますが、

実は子ども達やシニア層が

「その人が気持ちよくなる為」のボランティアをしている場合もあることを、ここに付け足しておきます。

そのような人の特徴の一つに

ボランティアだと言っておきながら

「俺の時間を返せ」という捨てセリフをお持ちであることも、付け足しておきます。

 

次は 第10回ということで、このブログのタイトル「当たり前のレベルを上げる」について 書くつもりです。

 

 

8.価値観

広島に「日本卓球リーグ」の観戦に行き

戻ってきたら、

今度は体調を崩してしまいました。

というわけで、随分間が空きましたが

今回は 「価値観」について書きたいと思います。

 

子どもの頃の私は、

スーパーマーケットへ買い物に出かける母に、付いて行くことが好きでした。

なぜなら、

母は、

肉や魚や野菜の名前ばかりでなく

「旬のもの」や、

「新鮮さ」や「おいしい物」の見分け方を

教えてくれたからでした。

私は、

物知りになれることが

嬉しくて、

楽しくて、

友達に自慢できることが増え

それが「自信」というプログラム作りの一助になったと思われます。

 

また

母はよく、

同じように見える物を二つ買っては、その食べ比べもさせてくれました。

そして 違いはどこにあって、その違いをどのように感じるかの話し合いをしました。

 

日常

保護者との雑談の中でも「高い」「安い」の話題は、結構 登場します。

それが悪いと言っているのではありません。

例えば、

ただ、移動するだけなら交通手段の安い方が良いでしょう。

ただ、泊まるだけなら宿泊費の安い方が良いでしょう。

ただ、※※だけなら安い方が良いでしょう。

しかし

「A塾は、5教科も教えてくれて月謝が1万円だから 安い」

「Bは、一時間5千円だから 高い」

「○○遠征に行っても、何にも上達しない。ホント無駄遣いだった」

などのような知識や技術習得に関しては、金額の高い安いでは無いと思うのです。

高いから悪くて、安いから良いのでは無いと思うのです。

実は、上記のようなことを「高くする」のも「安くする」のも、

その人次第だと思うのです。

どのように思い どのように感じ

それらを今後、どのように活かすかで、

その価値はどうにでも 変わるのです。

また

金額の高低よりも

例えば 子どもにとってメリットの有無を

まず最初に考えるべきだと思うのです。

そしてメリットがあるようならば

そこで、次にコストパフォーマンスの対比を考えるべきだと思うのです。

 

 

私は、若い頃ゴルフに凝ったことがあります。

当時は、

ウィークデーによくゴルフに出かけていました。

そんな時、ある先輩にこのようなことを言われました。

先輩:「なぜ 君は、ウィークデーにゴルフに行くのかね? 日曜日にゴルフへ行けばいいのに、高い遊びをしているね」

私 :「いや 違うんです。 ウィークデーの方が安いんです。日曜日だとプレイ代が1万円ぐらい高くなるんです」

先輩:「君の会社で働いている社員さんの気持ち、取引先に対する、君のすべきことなどを考えてみなさい。一万円高い日曜日にゴルフに行った方が、実は安いのではないかな」

とても勉強になった一言でした。

目先の金額だけに捕らわれていた自分の程度の低さを、思い知らされました。

 

さて、

一般的には、限られた家計でのやりくりの中で、教育費などを捻出しなければいけません。

価値のあるお金の使い方をしないと、本当の無駄使いになると思います。

結果の出ない塾や習い事、浪費、意味の無い節約などなど

早々にリストアップしてみてはいかがでしょう。

 

 

 

次回は どこかで聞いたフレーズ

「結果にコミットする」にするつもりです。

 

親と子どもの共育プログラム