9.結果にコミットする

RIZAP(ライザップ)という会社が、「結果にコミットする」ということで業績を伸ばしているようです。

結果にコミットするのだから、業績が伸びるのは、当たり前と言えば当たり前だと思います。

「コミットする」とは、「約束する」とか「引き受ける」という意味です。

「できるだけのことをする覚悟をする」といってもいいでしょう。

親である以上

「子育てにコミット」し、

指導者である以上、

「学びにコミット」し、「結果にコミット」

しなければならないと思います。

つまり、子育てもまともにできない親を、またまた結果を出せない指導者を親や指導者と呼ぶべきではないのでしょう。

 

時折、「あなたは、何回言えばわかるの」と、親が子どもを叱っているのを見かけます。

残念なことに、

親が子どもの「理解」にコミットしていない典型的な状態です。

親の教えが子どもの理解にコミットしていないのですから、本来はこれまでの説明の仕方のどこに問題があったのかを分析して、子どもの理解が進むように親が説明の仕方を変えるべきなのです。

「何回言えば分かるの」は、子どもが全て悪いのではなく、「何回も言っても分からせてあげられない教え方に問題がある」とも、考えてみるべきだと思います。

「何かを教えても教わった方がそれを学んだとは限らない」のです。

つまり、【教えた】=【学んだ】ではないのです。

 

学校でも習い事でも、多くの場合は、【教え手】は「教える」ことに責任は持っても「学ぶ」ことまでは保証していないのです。

多くの塾は、「週何回何時間教えます」という約束を果たせば、「教えた」ことになり、その結果、生徒が理解し自分の知識となったかどうか、つまり生徒が「学んだ」か、どうかは別問題なのです。

だから塾に通っているものの成績が一向に上がらない子どもがいたりするわけです。

そしてそのような子どもの多くの親は、口をそろえて、「うちの子の頭が悪いから、全然成績があがらないんですよね」と、言ったりもします。

成績が悪いから習いに行くのに・・・?

私はとても不思議に思います。

 

教え手が「教えのプロ」でお金(指導料が高いか安いかは別問題)を取っている以上、成績が上がらないのは教え手の教え方がその習い手に合っていない。

つまり、教え手の責任と言っても過言では無いと思います。

更には、合う合わないではなくて、教え手の技量が習い手に合わせられない程度なのです。

勿論、成績が上がらない全ての要因が教え手に有るというわけでもないのですが、とにかく指導に対して料金が発生している以上、「うちの子の頭が悪いから・・・」などといった遠慮など要らないと思います。

「子育てにコミット」するなら、

お父さん、お母さん、

真剣に選択しないと、大切な時期を逃してしまいますよ。

教え手と習い手の双方互いの気持ちが、趣味と本気とでは、違いが出てきて当然です。

教え方が上手いと下手では、上達に大きな差が開いてきます。

 

また、

教え手が、教えることがうまくいかなくなった時、往々にしてまず責められるのは学び手です。「やる気が感じなられない」「自覚がない」「才能が無い」「何を考えているのか分からない」などなどです。そのうちに、保護者が悪い、環境が悪い、地域が悪い、社会が悪いということになっていく場合も多いです。

時には、責められる方も黙ってはいません。「先生にやる気が無い」「無責任」「傲慢」「えこひいき」などなどです。そのうちにやっぱり今の社会が悪いということに落ち着きます。

私は

指導者たる者、

①何か問題があるときに、その原因を個人の能力や性格、やる気のせいにして、問題解決へ行動を取らなくなってしまってはいけない。

②常に自分の教え方を見直し、さらに改善しようとしなければいけない。

以上のことを、信条としています。

 

最後に

一部のボランティア風スポーツ指導において

「タダより高いものはない」という場合もありますし、

「子ども達やシニア層に、ボランティアで教えてやっている」という人がいますが、

実は子ども達やシニア層が

「その人が気持ちよくなる為」のボランティアをしている場合もあることを、ここに付け足しておきます。

そのような人の特徴の一つに

ボランティアだと言っておきながら

「俺の時間を返せ」という捨てセリフをお持ちであることも、付け足しておきます。

 

次は 第10回ということで、このブログのタイトル「当たり前のレベルを上げる」について 書くつもりです。

 

 

8.価値観

広島に「日本卓球リーグ」の観戦に行き

戻ってきたら、

今度は体調を崩してしまいました。

というわけで、随分間が空きましたが

今回は 「価値観」について書きたいと思います。

 

子どもの頃の私は、

スーパーマーケットへ買い物に出かける母に、付いて行くことが好きでした。

なぜなら、

母は、

肉や魚や野菜の名前ばかりでなく

「旬のもの」や、

「新鮮さ」や「おいしい物」の見分け方を

教えてくれたからでした。

私は、

物知りになれることが

嬉しくて、

楽しくて、

友達に自慢できることが増え

それが「自信」というプログラム作りの一助になったと思われます。

 

また

母はよく、

同じように見える物を二つ買っては、その食べ比べもさせてくれました。

そして 違いはどこにあって、その違いをどのように感じるかの話し合いをしました。

 

日常

保護者との雑談の中でも「高い」「安い」の話題は、結構 登場します。

それが悪いと言っているのではありません。

例えば、

ただ、移動するだけなら交通手段の安い方が良いでしょう。

ただ、泊まるだけなら宿泊費の安い方が良いでしょう。

ただ、※※だけなら安い方が良いでしょう。

しかし

「A塾は、5教科も教えてくれて月謝が1万円だから 安い」

「Bは、一時間5千円だから 高い」

「○○遠征に行っても、何にも上達しない。ホント無駄遣いだった」

などのような知識や技術習得に関しては、金額の高い安いでは無いと思うのです。

高いから悪くて、安いから良いのでは無いと思うのです。

実は、上記のようなことを「高くする」のも「安くする」のも、

その人次第だと思うのです。

どのように思い どのように感じ

それらを今後、どのように活かすかで、

その価値はどうにでも 変わるのです。

また

金額の高低よりも

例えば 子どもにとってメリットの有無を

まず最初に考えるべきだと思うのです。

そしてメリットがあるようならば

そこで、次にコストパフォーマンスの対比を考えるべきだと思うのです。

 

 

私は、若い頃ゴルフに凝ったことがあります。

当時は、

ウィークデーによくゴルフに出かけていました。

そんな時、ある先輩にこのようなことを言われました。

先輩:「なぜ 君は、ウィークデーにゴルフに行くのかね? 日曜日にゴルフへ行けばいいのに、高い遊びをしているね」

私 :「いや 違うんです。 ウィークデーの方が安いんです。日曜日だとプレイ代が1万円ぐらい高くなるんです」

先輩:「君の会社で働いている社員さんの気持ち、取引先に対する、君のすべきことなどを考えてみなさい。一万円高い日曜日にゴルフに行った方が、実は安いのではないかな」

とても勉強になった一言でした。

目先の金額だけに捕らわれていた自分の程度の低さを、思い知らされました。

 

さて、

一般的には、限られた家計でのやりくりの中で、教育費などを捻出しなければいけません。

価値のあるお金の使い方をしないと、本当の無駄使いになると思います。

結果の出ない塾や習い事、浪費、意味の無い節約などなど

早々にリストアップしてみてはいかがでしょう。

 

 

 

次回は どこかで聞いたフレーズ

「結果にコミットする」にするつもりです。

 

7.どう思う?

私が小学生の頃

母は 頻繁に「どう思う?」と、尋ねてきました。

 

ある事柄に対して、

子どもが親に、

「ねえ どうして?」と、きいて

それに親が答えると、

子どもは

また

「それはなぜ?」と、

しつこくきいてくること、ありますよね。

 

私の母親の場合は、その逆バージョンでした。

母親が私に「どう思う?」

そして

それは「どうして?」と、質問をしてくるのです。

そして 私の意見を聞いた後は

「なるほどね、謙次は 面白いね」と、言ってくれました。

なんだかんだ言っても、最終的にはいつも褒めてくれるから、その質問責めも苦にならず楽しいものでした。

【4.自分で決めなさい】で触れた 旅行先でもたくさんの問いかけにあいました。

必ず 私に思いや考えを言わせていたように記憶しています。

このような 母との習慣が、

きっと現在の私の長所でもあり、短所であるところの

「思ったこと 感じたままを ズバズバ 言ってしまう」という私の部分を作り上げたのだと思います。

そこは 私個人 大人として 人に不快感を与えてしまうことも多々あるので、深く反省すべき点ではありますが、

子どもには「自分で考え 表現する」ことは、とても大切なことだと思います。

ですので、

当スクール内で、私は子ども達に日課のようにあらゆる問いかけをしています。

今の練習は 「何のためにしているの?」

今の練習を 「もっと意味のあるものにするにはどうすればいいと思う?」

今の君に 「神様が何かを足してくれるとしたならそれは何だと思う?」

もし 「今の大事な試合で負けるとしたら、何が敗因だと思う?」

などなどです。

すると、毎回「ハイ」とすぐに手を上げる子と、黙り込んでしまって自分の意見を言えない子がいます。

自分の意見を言えない子どもに、

「なぜ自分の考えを言えないの?」

と尋ねても黙っています。

口をモゴモゴ動かし、発言の練習をしているように見える子もいますが、結局 その子の意見は聞けません。

とにかく ずっと黙り込んでしまう子もいます。

これには極度の恥ずかしがり屋さんということも考えられますが、当スクールの場合にはその理由は当てはまりません。

なぜなら、入校して間もない子どもには、みんなの前での問いかけはしません。

まずは、その子が物怖じしないタイプなのか、それともシャイなタイプなのかを見極めることにしています。

つまり、みんなの前で発言を求められる子どもは、練習時や休憩時には友達と平気で話せている子どもなのです。

勿論 私との関係も、

既に緊張して話せない間柄では、ありません。

なのに、私に

「君はどう思う?」と練習中やミーティング中に問われると、黙り込んでしまいます。

それは、たわいもない質問に対してもそうなってしまいます。

ある時、あるお母さんが、「うちの子は、自分の言った意見がもし違っていたら、恥ずかしいから、いつも黙っているのです。つまり自信がないのです」とおっしゃっていました。

確かに、誰しも人前で間違った意見を言うと恥ずかしく、また、自信の無いことは話せないものです。

しかし

「うちの子は、自信がないのです」と言う部分に関しては、

その原因はどこにあるのでしょうか?

また、その説明自体が、我が子を守っている親の

優しさであり、弱さなのです。

 

  •  もしも間違った意見を言って、人に笑われたり、馬鹿にされたら、恥ずかしいと思うのは、きっと 過去にそういう経験があるから
  •     自信が持てないのは、発言する機会が少ないから。
  •  「人には色々な意見や考えがあり、どれも間違いではない」って事を、親が教えていないから
  •  いつも 自分が話さなくても親(誰か)が助けてくれるから
  •  子どもが話そうとしているのに、親がそれを待てずに 答えを先に言ってしまっているから
  •  親が子どもに いつも「ああしなさい」「こうしなさい」というような指示を出しているから

だと思われます。

 

このようなことがありました。

ある日、試合の帰りに 「スタミナ太郎」というバイキングに行きました。

焼き肉有り、寿司有り、デザート有りのお店で、子どもなら楽しくてたまらないのではと思い、入店しました。

しかし

そこで ある子どもが、親に「何を食べればいい?」「○○食べてもいい?」って、いちいちお伺いをたてているのが聞こえてきました。

もしかしたら何かアレルギーでもあるのかとも思いましたが、

そんなことも自分で決められないのかと不思議に思うとともに驚きでもありました。その子が スクール内での私の質問に、答えられないのも当然だとも思いました。

その家庭ではきっと 日頃から、

「これを食べなさい」 「あれはダメです」 「それはそのぐらいにしておきなさい」などの指示を、親が出しているのだろうと想像してしまいました。

このようなこともありました。

先の子どもとは、違う子どもの話です

練習場の駐車場で、BBQパーティーをしていたときのことです。

私   「 食べ終わった人は、遊んでおいで」

○○君 「何をして 遊べば良いの?」

私     「なんでもいいよ」

○○君 「難しいな~」

何をして遊んで良いのかすら、わからないようでした。

 

私は父親譲りの「意地悪人間」なので、

子どもが答えるまで

子どもが自分で行動を起こすまで

常に黙って待っています

何分でも待ちます。

子ども達は

「田中さんは、絶対に助けてくれない人だ」

ということが分かってくれば、

徐々に

どうにか意見を言うようになリます。

バイキングでいちいちお伺いをたてていた子も、半年ぐらい前から、やっと「ハイ」とすぐ手を上げるグループ入りを果たしました。

「何して遊べばいいの」と、きいてきた子も、今では休憩時間を、楽しく過ごしています。

二人とも 学校の成績も卓球の成績も上がってきました。

少しずつ 自分の思いや考えを言えるようになったことにより

自分に自信を持てるようになったのだと思います。

 

何でも 親が先に言ってしまっていると、

子どもは、いつまでも指示待ちの子どもでいる

ことになります。

親は子どもが可愛くて仕方が無いのは分かります。

しかし、

子どもが失敗しないように先回りして指示することが

本来の「過保護」というものです。

それをしている以上、いつになっても

子どもは指示待ちから抜け出せません。

やはり、

親が子どもに対して我慢することが必要

だと、思います。

 

長くなりましたが、最後に

平井信義著 新紀元社出版

【「心の基地」はおかあさん】 に書かれている、一部をご紹介します。

親に服従ばかりして成長した子どもには、「自発性」が発達しません。「自発性」とは、自分であれこれ考えて、自分のしたい行動を選び出し、他人に頼らずに行動する力です。

自発性の発達が遅れている子どもは、ちょっとした困難に出会いますと、挫折しやすい子どもです。

そのような子どもは、両親の、特にお母さんの命令的な圧力に屈従し、あるいは過保護を受けてきています。お母さんは、身勝手に考えた「よい子」の鋳型の中に子どもをはめ込むためのしつけに熱意を示したり、子どもの内在しているすばらしい能力を信じないで、子どもは弱い存在として、あれこれ保護をしてきたのです。

そのことに気づいたならば、子どもにすべてをまかせ、口を出したり手を貸さない態度を確立するように努力することです。

そうなると、自発性の発達が遅れている子どもですから、一時的にはどのように行動して良いか分からずに、ぼんやりしていたり、うろうろしているという状態が続きます。しかしお母さんがそれに耐えて、口を出さないでいると、子どもはあれこれと迷いながらも、自分なりの行動を確立する努力を始めます。そして、時間はかかりますが、自発性が育っていきます。そしていきいきとした生活を始めます。自発性は元から子どもにもあるのです。

 

 

 

次回は 「価値観」にするつもりです。